名も知らぬ草に blog

管理人:草(そう)

・【9.11の映画】 /大人と子供の間には /やさしく書きたい /名も知らぬ草に、2003年より /動物界の驚き /毒か薬か /地球上もっとも美しい人 /新しいジャズロック

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 11日(火曜)午後、テレビ東京で映画「ワールド・トレード・センター /2006年、アメリカ」が放送される。9.11のあれだ。

テレビの番組案内より。 「9.11テロの現場で起きていた真実。」
あらすじ: 9.11同時多発テロ。標的となったニューヨークのワールドトレードセンタービル。その高層ビルでは何が起きていたのか?命がけで救助に向かった警察官たちの運命は?!

 

 ある人のツイッターで「坂上忍さんが主催してた子役スクールでの指導のやり方とか、「恐怖支配」以外の形容詞がなかったもの」とあり、それで思い出した。
むかし、萩本欽一の司会による番組「オールスター家族対抗歌合戦」で、欽ちゃんがこれから歌おうとする家族のなかの小さい男の子にマイクを向けて「ぼく、お名前は?」「〇〇△△です」「え?聞こえないよ!お名前は?」「〇〇△△です」「もっと大きく!」男の子は真っ赤になって「〇〇△△ですっ」「もっと元気よくっ!はいっ、お名前は!」「〇〇△△ですっ!」というやりとりがあった。それは番組を盛り上げようとする演出なのだろうけど、引っ込み思案で声の小さい(大きな声を出したことのない)わたしはその男の子のいたたまれない気持ちが分かる気がして、「欽ちゃん、ひどいなぁ……あの子、かわいそうじゃない(>_<)」と思った。 「子供は元気いっぱいなのがいい」というオトナの決めつけがツライときもある。
それから、小学校の4~6年生までクラス替えなしで先生も生徒も3年間一緒だった。担任の若い女のI先生はとても厳しくて、ひとりだけ違う行動をする生徒や口答えも許さない人だった。ドイツ式のスパルタ教育だろうか。宿題をしてこなかった生徒を問い詰めて「それはナマケですね?」と断定して、その生徒を廊下に立たせたり、机を廊下に出されりした。I先生はカリスマ性があり、クラスのみんなが崇拝して従った。先生は絶対的な存在で、クラスの空気がまるで軍隊のようだった。授業中、生徒のおしゃべりの止まないときはI先生が90センチもある竹の長い物差しで黒板を「ビシーーッ!」と叩くと、教室内が水を打ったかのように凍りついた。黒板の「ビシーーッ!」は授業参観のときにもあり、教室の後ろに並んでいたお母さん方がその瞬間、息を呑んだ空気になった。帰宅すると母は「何あれ!先生、おっかないねぇ……」と震え上がりながら言っていた。 伊豆高原の宿舎では消灯時間をすぎても女子の部屋を訪ねようとする男子のために連帯責任として男子全員が冷たい廊下に30分も正座させられた。 なにかの宗教みたいだとも思った。わたしは内心、その統一性にかすかな恐怖感と疑問をもっていたけれど、とりあえずみんなと同じように行動してなるべく目立たないようにしていた。
 I先生はクラスの人気者で、休み時間になるとみんなで教卓の周りに集まってI先生から一人ずつ「ドクタースランプ・アラレちゃん」の絵を書いて頂いたりしていた。わたしは先生からもらった板垣退助のシールを勉強机の鍵つきの宝物ひきだしにしまって大切にしていた。
 でも、いいところもあった。I先生は生徒ひとりひとりの個性を見出して「〇〇君にはこんないいところがあるのよ」とみんなの前でほめてあげたりした。I先生はいじめや仲間外れを絶対にゆるさない人だったから、うちのクラスではいじめがなく、勉強のできない子、何をしてもモタつく子、消極的で友達の輪に入れない子などがいると、クラスのみんなで応援したり、話しかけたり手伝ってあげたり、遊ぶときに声をかけてあげたりしていた。
 恥ずかしいこともあった。5年生か6年生のとき、図工の時間に自分のすきな有名絵画の模写(書き写す)をすることがあり、わたしはモナリザを模写した。うしろから来た先生が「〇〇さん、よく描けてますね、すごいわ(^▽^*)」と声をかけてくれた。すると後日、廊下に面した壁にわたしの描いたモナリザだけが貼りだされた。他にも、ううん、わたしよりも絵の上手い子が何人もいるのに、その子たちをさしおいてどうして一人だけ?? みんなの絵も一緒に貼りだしてくれたらいいのに。目立たないでいたいのに。これじゃ注目されてしまうかもしれない、どうして先生はこんな恥ずかしいことするの、とわたしは、その絵が外されるまでの何週間かを消え入りたい気持ちで過ごした。なにごとにも消極的で算数が不得意だったわたしにI先生はおそらく「もっと自信もって☆」と言いたかったのだろうけど、あれはいたたまれなかった。
 家庭訪問でI先生がわたしの家に来たときのこと。「〇〇さんは、家庭ではどうですか」と先生が訊くと、母がまってました!とばかりにまくしたてた。「○○はお手伝いをひとつもしないし(いつもしてるでしょう)、おつかいを頼んでも融通がきかないし(3本入りのにんじんを買ってきてと言われて八百屋さんに行くと5本入りしかなくて、母のいう通りにしないと、5本入りなんて買ってきたら「こんなに要らないのに!」と怒られると思って結局、買わずに帰った)、妹をいじめるし(神に誓って、そんなこと一度もない(@_@))、ひどいんですよ!」 するとI先生はびっくりして、あわてて「○○さんは国語がよくできるし、何事にも一生懸命に努力して、がんばり屋さんなんですよ(^^*)」とフォローしてくれて、わたしはあまり頑張っていない自覚があったから「がんばり屋」だなんて言われて『がんばってません、ごめんなさい……』とうしろめたい気分になった。
 本を読むときはI先生の言葉を思い出す。「一回読んで分からなかったら、10回読みなさい。分かるまで読みなさい。」 わたしは、たった一言でも一行でも、きちんと理解できるまで先に進まない。先生のあの言葉をきく以前からそうしてきたけれど、あの言葉をきいてからはいっそう慎重に読むようになった。ときには返し縫いのようにして前の頁にもどることもある。 ルビのふられていない読めない漢字が出てきたら、国語辞書をひらいて、「こうかな?」と推測した読み方を調べる。読み方が判明したら、その漢字をてのひらに指で書いてみる。 そんなふうだから、わたしは一冊の本を読み終えるのに何日もかかっていた。
 余談。わたしは日記にはむつかしい漢字はつかわないように心がけている。ひらがなはやさしい。 昔、母が「これなんて読むの?【しゅつとら】?」と訊いて父が「馬鹿だなぁ、【しゅつえん】だよ(笑)」というやりとりがよくあった。 文体もできるだけ平易にわかりやすく、たとえば新聞記事のようにムダのない文体、尋常小学校しか出ていないというお年寄りでも、小学生の子供が読んでも分かるように書きたいと思っている。


 2003年、9月の日記より。2003.9.8 「 きのう。家人の部屋に入っていって意味なく冷蔵庫をのぞいたり家人のむっくりした背中を眺めたりしていると、家人が空調のリモコンをとってピッ、ピッ、と温度を下げた。「なんやろ… 〇〇ちゃん来たら嬉しいんかして、体ほかほかしてきた」と言い、おでこに小さな水玉を浮かべながらエヘヘ…と照れている。 冗談なら返しようもあるだろうけど。私はうろたえた。 うろたえ、あきれ、固まったあと、ようやく「そ、そぉ、ふぅん」とだけ返し、早々に家人の部屋を出た。
 夜。家人がテレビゲームをしているところへお菓子をもって入っていった。チップスター海苔味。ふたをツポンと取り、中身を家人に渡す。内袋をあけてもらうあいだ、私は筒に口をあてて「ア~~(はやくはやく開けて)」 家人がふりむき、かわいいなぁ、と私の頭をなでる。 ゲームに集中している家人の横でポリポリポリ…。ほとんど私が食べてしまった。からっぽの筒の中にむかって「ア~~(もっと食べたいかも)」 家人がふりむき、目尻を下げて微笑む。 わたしはクルッとうしろを向き、すぅっと息を吸うと、筒の中にコショコショと言葉を入れ、いそいで蓋をした。「なに?なに言うたん?」うしろから家人がのぞきこんでくる。 なにって、それは。 …ナイショ。 」

 2003.9.12では、キリンジが反則だと述べている。 「 今朝、新聞をとろうと玄関をあけると、おんぶバッタがいた。なにもおぶってない。
 バルコニー。水やりとカメの水替え。水槽を洗ったあと、カメをコンクリ上に放す。2往復させたところで水槽にもどす。プチ遠足。
 髪が暑い。えりあしが特に。くるくるぱちんとまとめたいけど、長さが足りない。 考えたすえ、髪をはさむものを2つ使い、うしろのほうだけとめてみた。 うちわで風をおくる。むきだしになったうなじからスーッ。背骨のなかをとおって鎖骨、胸の骨まで冷たい水が走った。 晴れでも雨でも曇りでも、ラジオでキリンジが流れると「反則!それって反則!」と思ってしまう。アもウもなくいきなり甘酸っぱい世界。 」

2003.3.3より。 「バルコニー。やわらかな陽のなか、目をほそめて洗濯物を干す。空からは飛行機の。南風に運ばれたエンジン音。手をとめて聴き入る。
 なにも考えない。なにも思わない。
 満ちている。 」

2003.10.6より。 「 テレビで「男はつらいよ」を半分だけ観た。 老獣医(三船敏郎)はスナックのママ(淡路恵子)に想いをよせている。ずっと、想いをよせている。だけど言えない。どうしても言えない。 寅さんのせりふ。「無理だろ。5年も10年も顔つきあわせてて、好きのひとことも言えないような男に、女が惚れるとおもうか?」 老獣医の娘(竹下景子)も、そおねぇ…と頷いたりしてる。 私はウーンと唸り、「…いいでしょ」小さくつぶやいた。 いま気付いた。寅さんも、『言えない男』なのだった。 」

2003.10.3より。「 歌手のアーロン・ネビルが車を売るときに契約書を交わしたのだけど、相手の人は契約書を読むことができなかった。文盲だった。アーロンはたいへんなショックをうけた。識字率を上げるための運動に参加するようになり、先日は幼稚園でみずから子供たちに絵本を読み聞かせた。 …という話をラジオで聞いた。
 ふわふわ連想して、じぶんの「文字はじめ」のことをおもった。「読む」のはいつからはじまったのか覚えてない。「書く」のは母に教わった。幼稚園も保育園も行っていないため、学校に上がるまえに母が教えてくれた。裏の白い広告の紙に鉛筆で。「あ」からはじまり、じぶんの名前をひらがなで書ける程度まで。時計(時刻)の読み方も教わった。これは苦労したわ、と母が言っていた。そうかも。時計はむずかしいかも。
 それから。漫画のなかの話。鈴木志保「船を建てる」という漫画。 平原をはしる一本道で、青年が腹ペコの行き倒れの老サギ師と出会う。ヒッチハイクを試みたり、車泥棒したり、いろいろあるのだけど、青年の目的地に着いたところで二人の旅は終わる。 別れぎわ、老サギ師はスネている。青年がいう。「じゃあ手紙を書いてよ」 「手紙なんか書けん」しょんぼりと老サギ師。「どうして!?」 「…だってわしは字が書けんもん」 そこから旅のひとコマひとコマがモノローグのように流れ、最後の頁に至る。私は最後の頁で泣いた。何度読んでも泣いてしまう。 」

2002.11.20より。 「 昨夜はおでん。家人が、おでんはおかずにならへん…と言いながら、しっかりとご飯をおかわり。この、色ついた玉子がええねん…と大事そうに、玉子をいちばん最後にほおばっていた。はんぺんを忘れてしまい、妹に「ええーっ!」と言われる。そぉ、そんなに好きだったの。私も好きだったけれど、このごろは大根のほうがよくなった。
 朝。ダブルクリックの夢をみた。指がいうことをきかず、どうしてもカチカチッとできない。パソコンから「もっと早くっ」「ちがうっ」と厳しい声がとぶ。まるで『エースをねらえ』の宗方コーチ。目覚めてからも、ちょっぴり悲しかった。
 夜。妹にどんぐりをあげた。実家にもどる妹を見送る。月が傘かぶってるよ、と指差したりしたけど、ほんとうは月なんてどうでもよかった。バスに乗り込むところを見たら泣いてしまいそうなので、バス通りの角で別れた。 」

 

 「おんぶバッタなのに、何もおぶってない」以外にも、動物界には驚きの事実がある。鳥なのに飛べない(ペンギン)、亀は意外と速い、ミミズにはオス・メスがなく、前にも後ろにも進める、サケのメスのなかには、メスなのに卵を産まないものがいる(それは「鮭児」と呼ばれて珍重される)、金魚も亀も地震予知できる、中国人は椅子以外なんでも料理して食べるらしい、など。 余談だけど、うちは家族そろってテレビの「野生の王国」や「川口浩・探検隊」を真剣にみていた。

 

 わたしの書くものは、極力だれかを傷つけたりしないように細心の注意をはらっているけれど。あまり読みすぎると健康を害するおそれがあるかも。用法・用量に気をつけて、心身に異常がみられた際にはかかりつけの医師にご相談を。


 あれはいつだったか。グレイス・ジョーンズを初めてみたとき、この地球上でもっとも美しい人だ、と驚いた。エレガントで野生的で。 奔放に伸びた手脚は、どこかジャコメッティの彫刻を想起させる。 ライブ版がどうしよう。……女神だ。女神の降臨だ。
 デビッド・デクスター.Dが深夜のラジオJ-WAVEから流れてきたとき、わたしは苦い珈琲をくちにしてしまったか、あるいは大きな岩で頭をガーンと殴られたくらい、いい意味でショックを受けた。なにこれ、こんな音楽きいたことない……、とラジオのまえに釘付け。なんてめざましく新しいの?!と全身を耳にして聴き入った。 (音楽の専門的なことは知らないけれど)ところどころ「A列車で行こう」や「チュニジアの夜」が現れたり隠れたりして、ジャズとロックとファンクとヒップホップ?がひとつに溶け合っていて……、すべてが一曲のなかに収まっていて、色んなジャンルの音楽を聴いてみたいわたしにはありがたい仕様だった。