名も知らぬ草に blog

管理人:草(そう)

・(※再掲)父のこと /おとうさんにも聴こえるかな /2014.11 無常の風 /ゆらゆら帝国「冷たいギフト」。由紀さおり「ルーム・ライト」。カウシルズ「雨に消えた初恋」 


 今朝。おもいがけず○○さんと連絡とれた。父の妹。 父の納骨以来、3年ぶり。 丁寧な文面に、あぁ○○さんらしいなぁ。と微笑む。 気まじめで礼儀正しくて温かいひと(^o^*)


 そういえば父の急逝したあれはたしか今ごろ……。 何年の何日だったっけ。 あのときはなにがなにやらさっぱりで。どうしてかあの日にちを覚えられなかった。 このまえまで使っていたガラケーの着信記録から推定→ 11.13。何年だろう、えーと……わたしの過去日記から推測→2014年らしい。 2014.11.13。

 

 かねてからひそかに思っていること。人は、誕生日のあたりに亡くなる。 父の誕生日は1945年(昭和20年)11月20日。
 父が、文子さん(父の5歳で亡くした母)のお腹にいるとき。昭和20年3月10日未明、東京大空襲があり、深川の家も家族(大工の棟梁を営んでいた、わたしの曽祖父母ほか)も燃えて消えた。 そのできごとを、新潟に疎開していた文子さんは(父の母、わたしの祖母)どんなふうに知ったんだろう。ラジオの臨時ニュース?翌朝の新聞? どんなにか驚いたことだろう。


 父の急逝。 あの日は、父が入院して数日。 おとうさん退屈してるだろうな。ちょっと父の顔を見にいこう。会ったらまず「おとうさん、具合はどう?」と訊いて、それからお相撲の話をしよう。 と、鼻歌まじりに軽やかな気分でお見舞いにいく支度をしているとき、実家の母から電話。「○○! おとうさん心臓とまったって! いま病院から電話あって(>_<)」「、え。(@_@)」 

 

 

_____________
 (※ 2018.8.29より 再掲)

 父が急逝して、この秋で三年。 69歳だった。(※父が亡くなったのは2014年11月) おしっこが出なくなり入院して数日、膀胱がんとの診断。 父に会ったらお相撲の話をしようと思いながら軽い気持ちでお見舞いに行く支度をしているとき、母からの電話「〇〇! おとうさんの心臓が止まったって!」。危篤の知らせをうけて病院へ駆け付けた母もわたしも間に合わなかった。父が体の不調で病院をたずねてから数日しか経っていない。


 「あんたぁ!あーらどうしよう!あんたがいなきゃわたしどうすりゃいいのよ……」冷たく横たわる父に母がすがりついていた。

 父の顔は穏やかだった。おとうさん、よくがんばったね。おつかれさま。わたしは黙って父のあたまをなでてあげた。髪はふさふさで柔らかかった。 ほかに何ができるだろう。これで精一杯。

妹にも「ほら、触ってごらん」と促したけれど妹は手をださないで見ているだけ。 あまりのあっけなさに妹も戸惑っているようだった。

 


 その病院では看護師が父に何らかの点滴をしたところ心臓が止まったという話だった。 それを聞いて真っ先に思ったのは、それって医療ミスでは?ということ。
 父の横たわる霊安室に、担当した医師と看護師が現れて「このたびは誠に……」と語尾を曖昧ににごす。「一生懸命みてくださって、ありがとうございます。」と頭を深く下げたら、医師と看護師の人たちは「と、とんでもございません!」と応えてドキリとしたらしいのが空気でわかった。そうか。やはりそうか。 でも、こうなってしまったらもうどうしようもない。


 霊安室で父の清拭を待つ間、葬儀社の人におそるおそる尋ねてみる。「あのぅ、息を吹き返すってことはないんでしょうか?」「ないですね。外国ではあったらしいですけど」そうか。生き返ることはないのか……でも父ならひょっとして……というわずかな希望が消えない。


 母とわたしは一服するため病院外の公園のベンチへ。「おとうさん昨日サンドイッチ食べたいっていうから持っていったけど、まだ冷蔵庫にあるのかしら」とサンドイッチの心配をする母。 鞄から甘納豆の小袋をだして一粒くちにふくみ、母にも勧めながら「それより、○○さん(父の妹)に知らせなくちゃ。連絡先しってる?」


 ○○さんに電話で報告すると、「みなさん一緒ですか?」「え?」「一緒に暮らしてたんですか?」「はい」「よかった……独りじゃなくて。」心から安堵したような声だった。生きてるうちに会わせてあげたかった……。と申し訳なく思う。


 すっかり日が暮れて夕方。父を葬儀社に預けて病院をあとに。コンビニ弁当を買って実家へ帰宅、三人で夕食。 妹が幕の内弁当の鮭に醤油をだばだばかけるのをみて(あぁっ)と思う。そういえばお弁当を買うとき、妹はいつものように長々と時間をかけて選んでいた。母はレンジで温めず冷たいままの幕の内弁当を「うん……、おいしい……美味しい」と頷きながら食べている。よかった。食べてくれている。そういえば母は冷や飯が好きで、カチカチに冷えたご飯を好んで食べていた。わたしはそぼろ弁当だけど味がよくわからない。ただ、こんなときでもご飯は食べなくちゃいけないんだなぁと思いながら食べた。

 

 斎場では○○さん(父の異母妹)と数十年ぶりに対面した。面差しがおじいちゃんによく似ている。棺が炉の中へはいっていくとき、○○さんがハンカチで目を押さえて見送っていた。泣いているのは○○さんだけで、わたしたちは呆然としていた。心の準備も何もする間がなくこんなことになってしまい、この現実に心が追いついていない感じ。 火葬は一時間ほどで焼き上がり、不謹慎だけど、なんだかオーブン料理のようだと思った。「立派な骨ね……父親ゆずりだわ」○○さんが父の白い骨をほめてくれた。焼いた余熱で温かい骨を拾いあげたあと、「のりちゃんは、きゅうりもみとほうれん草の胡麻和えが好きでねぇ……」と父の好物だったものを教えてくれた。きゅうりもみは、きゅうりとワカメの酢の物のことだろうか??「のりちゃんは優しすぎたのねぇ……優しすぎてワルイお友達と……」いや、単独だった。単独で狂暴だった。何度も警察にお世話になったというし、よく血まみれで帰宅した(本人は無傷)。でも八歳も歳の離れた妹には優しかったのらしい。わたしにも優しかった。素面のときは争いを好まないらしく、わたしが元夫から暴力をうけて助けを求めた際には「俺ももう歳だし……迷惑なんだよ」と嫌がっていた(このときはショックで一日中キリンジの「You and Me」を聴いていた)。

 

 お骨は上野(谷中)のお寺に納められた。そのお墓には東京大空襲で亡くなった曾祖父母(深川で大工を営んでいた)と父が五歳で亡くした母親も入っている。 空襲のときは家を飛び出してあちこち逃げまわった末に焼け死んだはずだから、曾祖父母の骨壺には骨など入ってなくて、おそらく空っぽか、焼け残ったお茶碗のかけらでも入っているのだと思う。


 お寺への道筋はわかりにくく、あまり足が向かない。たとえ墓参しても、墓石は何も語らないだろう。それでも、気持ちを軽くするために訪れたほうがいいのかな。母は、妹が煙たくて嫌がるからといって仏前にお線香の一本も立てない。


 父とはもっと相撲の話をしたかった。母との若い頃の話も聞きたかった。 父と母は19歳のときダンスホールで知り合った。黒い着物で佇む母に父が声をかけた。「ねぇ君、ジュークボックスで何か聴かない?」、「音楽なんてしらないわ」、父「君、おなか空いてない?おにぎり頼もうか?」、母「えっ(あら、いい人♪)」というのが出会い。

 父は働くこととお酒と散歩と草花、音楽とカレーと由紀さおりとNHKと千代の富士と映画「男はつらいよ」が好きだった。料理も天才的で。人に食べさせることが好きな人だった。酒の肴を手早くつくって私達に「おいしいよ、食べてごらん」と勧めて、私達がすっかり全部たべてしまっても「そうかそうか」と満足そうに頷いていた。じゃがいものソース炒めや蓮根のきんぴらなど、夢中で食べてすぐになくなった。近年では、おから等つくると職場の人達に配ったりしていたそう。あとは煮魚が得意だった。絶品だったサバの味噌煮ももう食べられない。 すべては過ぎてゆくのらしい。白い光のなかへ。

 

 

_____________

 

 音楽は。 父の急逝から、くりかえし聴いていた、ゆらゆら帝国「冷たいギフト」。 父のすきだった由紀さおりの曲。それと、父のコレクションの「懐かしのポップ音楽(1950~1960年代)」から、わたしのひそかにお気に入りだったカウシルズ「雨に消えた初恋」。
 おとうさんにも聴こえるかな どうかな ……あれ、パソコンの画面みえない まいったな (ノ_・。)

 

 

 _____________
【 YOU TUBE 】

 

ゆらゆら帝国 - 冷たいギフト

ルーム・ライト  由紀さおり (1973)

カウシルズ The Cowsills / 雨に消えた初恋 The Rain, The Park & Other Things (1968年)

 

 名も知らぬ草に /過去 2014.11 
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Sirius/5082/past1411.html

 

 

f:id:namosiranu_kusani:20181112095828j:plain

 

f:id:namosiranu_kusani:20181112095855j:plain