名も知らぬ草に blog

管理人:草(そう)

・ 右脳、左脳 /なまえをつけないでほしい /よろりとして /手の話 /ビートたけしのやさしいことば /たけし母「貧乏には、学問。」 /いじめのからくり 

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 とあるツイッターの、右脳と左脳の実験が興味深かった。
 視力検査の記憶。わたしの目は。左目は遠くまでよくみえて、文字の意味もわかる。右目遠くはみえない、色鮮やかにみえる。左目でものをみると、色があまりない。
 アルファベットや数字をみるとき、左目でみるとくっきりみえて、その意味や、数の大きさが理解できる。右目でアルファベットや数字をみると、形はおぼろげで、数字はその数が理解できない、文字はただの文字で意味をなさない。右目は、数字も文字もただの記号(何かのマーク)にしかみえない。
 昔から、漢字がバラバラになる。漢字の「つくり」や「へん」が左右と逆になったり。実験の「験」とか検索の「検」とか。 殺・殴←この漢字は左上と左下、右上と右下、どれがどこになるのかいつも悩む。悩んで、ひとつひとつのパーツを(部首?)書きながらパズルのように並べ替えてみたり。 「壁」「驚く」「遊ぶ」という字は、いまだに書けない。 なにかの障害かな。 でも。なまえをつけないでほしい。
 文字を書くときや話すときは。 右側のアタマにその映像や記憶が(イメージ)浮かび、→ それと同期して、その映像や記憶のフィルムカメラを(刻々と変化していく)左側のあたまで、バラバラに点在する言葉のパズルをいっしょうけんめい組み立てて、ならべ替え、わたしのなかでOKの指令がでたら、→ 書く、発語しているもよう。


 みんなはどんなふうなんだろう。数式をといたり、外国語のしゃべれたり、キーボードをブラインドタッチしたり、パソコンをいじったり、いちど通った道は覚えてしまったり、正確な地図を書けたり、むつかしい何かをお馬鹿な人にもわかりやすく説明できてしまう人の頭の中はどうなってるんだろう。 そういったすごい人たちは、きっとわたしのニューロン(何かのテレビでみた。脳内に電気信号を送るための伝達細胞?)の百倍、や、一万倍はあるんだろうなぁ。


 耳は。ヘッドホンにグラフィック・イコライザー(音質調整)のついてるなら、シャカシャカと高いキンキンする音は(エレキギターとか、チンと鳴るドラムのハット=シンバル?)右から聴こえるように、ドラムやベースやチェロなどの低音は左で聴くようにする。音楽を聴くときは左右の音位(おんい)を大切にして聴く。 何かの本で読んだこと。人の亡くなるとき、五感のうち、最後まであるのは耳、つまり聴覚だという。だから、もしも誰かの臨終のときは、耳元でささやいてあげると、亡くなっていくひとは安心するとのこと。
 大きな音に弱く、精神的にまいってしまう。大声の人はニガテ。 音楽は。一曲ごとに最適な音量で聴く。それは、一日ごと、あるいは、そのときによって変わる。 あの音楽ははわたしのなかではマックスな音量で聴く。そのあとたいてい寝込む。 聴きたいけど、体力がない。 耳はひとつしかないのに。聴きたいものがありすぎてどうしよう。


 いつぞや。片目をつむって片足立ちしたら、ぐらぐらする。 両足で立ち、ためしに両目をつむってみたら、一秒も立っていられず、前方のベッドに両手をついてたおれこんでしまった。 両の目をあけていないと、歩くことはおろか、立つことさえできないのらしい。バランスか。二次元から三次元へ。三次元から四次元へ。
 そういえばこのところ、下のものをとろうとすると、よろりとして、壁やフローリングの床にしたたか腕や手や背中をぶつけてしまう。 三半規管? へなちょこ30%増量。や、もっとかな。

 

 手の話で思いだした。
 ビートたけしテレビタックルをみていたとき、視聴者からのお葉書で、専業主婦の何とかさんが「お皿を洗っていたら、手がすべって取り落とし、お茶碗が割れてしまった。するとテレビの野球中継を見ていた夫が、顔をテレビに向けたまま、私の背中に声が降ってきた。『あーあ。オレの茶碗なのに。』 私はおどろいた。おどろいたけれど、あぁそうか、と納得。 『大丈夫?! ケガしてないか??』などという言葉は、ついにいっぺんもかけてくれたことはなかった。」
 そのお葉書を読み終えて、ビートたけしがひとこと。「あぁ、男ってそんなもんだよね。」 それから、なにかを思い出すように視線を右上に走らせ、もうひとこと。「手が濡れてると、切れやすいよね。スパっといっちゃうんだよねぇ……」 わたしはびっくりして、感心した。『たけしは知ってるんだ……。きっと若かりしころ、飲食店のお皿洗いのバイトとかして、そのときにさんざん手指を切ってしまったんだ……』 たけしは、わかってくれてるんだ。

 

 ビートたけしの本にあった。えーと……。 「テレビのドキュメンタリーとかで、その一部始終をみてるとサ、俺らなんか、そっち側の立場で共感しちゃうんだよね。 カラスにも可愛いヒナがいて、そのヒナを、タカがさらってって、あぁ、巣立ちしたばかりの若いタカが初めてエサ獲れた、よかったねぇ、みたいにサ。」

 

 俺なんか、つきあうと、おネェちゃん、みーんな母親にしちゃうから。ネェちゃん、腹すいたよ、メシつくってよう、とかサ。甘えてんだよなぁ俺。

 

 母ちゃん(実の母親)がさ、俺が漫画なんか読んでると言うのよ、「本なんか読むと、左翼になる。勉強しろ!お兄ちゃんみたいに、おまえも東大行け。」って。あと、母の口ぐせ。【貧乏は不治の病だ。 貧乏をたちきるには、学問しかない。】【文科系はつぶしがきかない。理系なら(エンジニアとか専門職)食っていける。 芸術家なんてとんでもない、絵描きなんて一生貧乏だ!】「……あれは名言かもしれねぇなぁ。」

 そういえば田辺聖子の小説「苺をつぶしながら」「(その続編?)私的生活」のなかで。生まれた時からブルジョワの苦労知らずの夫が、貧しい絵描きだった主人公の女性にむかって、「絵描きは、恥かき。 俺がオマエを救ってやったんだ。もうあんなヤツラとつきあうな。貧乏がうつる!」と決めつける。夫の絵は落書きていどのため、夫は芸術家にたいしてコンプレックスがあるのらしい。 「アイツは、美人だけど、性格が悪い!」と相手にもされなかったうっぷんで、モテない男が陰口をたたくようなものか。←※なぜか本人に直接いわない。嫌われるのが怖くていえない。しかも、相手が一人になったときを狙って、(悪意で団結した)集団で行う。弱い者いじめみたいな。 主人公は『そうかもしれないけど。……わたしはあの人たちが(絵描きだったころの、芸術家仲間たち)好きだ。』と胸の中で呟く。

 
 十代は渦中で、ただただ苦しい。 二十代は、自分も似たようなことをしている。 三十代でその理由に気づき。 四十代は、もうはっきりとみえる。 五十代は熱血か傍観。 六十代はどうかな、まだ青いかな。