名も知らぬ草に blog

管理人:草(そう)

・ 暴力の記録 2008年4月、9月。 /めまい

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 2008年の9月。ちょうど今頃、わたしはそのときの夫から首を絞められた。
 出口は4階の窓と玄関だけ。玄関のほうに夫が立ちふさがり、脱出は不可能だった。
2008.9.5より。 「9.5(金曜) 夜
 天地が不明になったつぎの瞬間、後頭部に鈍い痛み。 一瞬の闇のあと。わたしの首を絞める手、口と鼻をふさぐ手。
 悲鳴をきいた。 わたしの声らしい。 声をあげたのは初めてだった。 」

 

 その年(2008年)の4月9日と10日は。 夫が帰宅していきなり、わたしに暴言を吐いて、平手打ちの連続。わたしが菩薩のように無反応でいると、夫は「プッ」と、わたしの顔につばを吐いた。けれどわたしの顔はひとつも濡れていない。夫は極度に緊張していたらしく、口の中がカラカラに乾いていたのだろう。
 「顔も見たくない!出ていけ!」というので、あらそう、とホッとして玄関ドアに手をかけたら、夫があわてて追いかけてきて、夫がわたしの後ろでひとつに結んである髪を掴み、後ろに思いっきり引き倒し、「甘いんだよ!」と言いながら、わたしを左へ突き飛ばす。わたしは廊下の左のバスルームに倒れてしまい、バスルームの床が濡れていたらしく、手のひらと髪が少し濡れた。
 夫はわたしの襟首をつかんで部屋へと引き戻した。 そして、夫はわたしに馬乗りになって首を絞めてきた。「警察なんか怖くないぞ。 警察なんか行ったら、覚えておけ! テメエの家族も、みんな俺が殺してやる!」と口走りながら。
 わたしは首を絞められて血が止まっておでこがフワッと温かくなるのを感じながら、こう胸で呟いた。「おとうさん、おかあさん、ごめんなさい。 わたし幸せにならなくちゃいけないのに、こんなことになってごめんなさい。こんな親不孝でごめんなさい……、」
 夫が帰宅した夜の10時から明け方の3時まで、わたしは一方的な暴力をうけて、その間、お水も飲めない、トイレにもいけない、もちろん出口はふさがれている、携帯はとりあげられていて誰にも連絡できない、もうすっかり疲れ果てているのに、眠らせてもらえない。

 

 4月10日に殴られたとき、口の中が切れた。後日、友人と回転寿司を食べるときに頬の内側の傷にしみた。
 腕をグーで殴られた、その跡が二の腕に、赤いあざ→青いあざ→黒いあざ、となって一か月のあいだ残っていた。 暴力の後日、腕を病院で診てもらい、レントゲンを撮った。 「どうしてこうなったんですか。」と先生。「夫にやられました。」 すると先生は真顔になり、「あのね。うちには旦那さんから殴られて頭から血を流して来る奥さんがいましたよ。 あなたねぇ。逃げなさい。殺される前に、逃げなさい。」 そのあと「(警察に)被害届を出しますか?」と訊かれ、「いいえ。出しません。」とこたえた。

 

 暴力は確実にエスカレートしていった。 つぎは危ないかも。 ひとつ間違えば殺されるかもしれない。

 


 翌日、買物にでかけたわたしは電話ボックスの黄緑色の公衆電話のまえで足をとめた。でも、あんな夫だけどいちおう家族だもの、警察につきだすなんてできない。 わたしの両親には心配かけたらいけない、迷惑になるかもしれない。
(2008.4.18 雨) なのに 声がでない /と日記にはある。
 もしも次に殴られたら。そのときは警察に駆け込もう。あるいは東慶寺か(鎌倉の)。追手につかまりそうになりつつ、お寺の石段を駆け上りながら、自分の履物を山門にむかって投げ入れたい。 携帯は、ひらがなの「し」と打つと「出家」という言葉がなぜか一番にでてきてわたしを困惑させる。そうか、尼さんか修道女になろうか、うん。と胸で呟いたりしていた。

 夫からの一方的で理不尽な暴言&暴力に、わたしはいっさい抵抗しなかった。 無抵抗の人間に、どうしてそんなことができるんだろう。
 夫が狂って暴力をふるう理由は。 わたしはひとつもミスをしなかったし、夫にたいして誠実をつらぬいていた。 夫は、「テメエは嘘つきで冷たくて怠け者で裏切り者だ!」とわたしをなじっていたけれど、その内容はひとつもわたしに該当していない。夫は、口を結んで正座しているわたしではなく、脳内の過去の誰かや虚空にむかって吠えていた。その目はほら穴のように暗く、何も映していなかった。 夫はたぶん、いま目の前にいるのが誰でもよかった、狂ったところを見てくれる観客がいればいい、という状態。 もうひとつ。夫は、試していたのだ。この女は自分をどこまでゆるしてくれるのか?なにをしたら怒るのか? 暴力をふるうことで、わたしの心の大きさを計っていたのだ。わたしの限界がどれくらいかもわからずに。ばかな男。けっきょくあの男は最後まで、わたしの精神のはじっこにも触れられなかった。


 その夏ごろから、夫の帰宅時間が近づくと、頭痛と吐き気と耳鳴りをともなうめまいがした。精神的にはまだいける、だいじょうぶ、と思っていたけれど、身体のほうがSOSを出していたのかもしれない。


 9月5日夜。夫は帰宅してそうそう、わたしに因縁をつけて、静かに正座しているわたしの頬を平手で思いきり叩いた。叩かれて横を向いた拍子にふと鏡(スタンドミラー)をみると(「いまわたし、どんな顔してるんだろう」と思って)、「鏡なんか見てんじゃねえよ!」と何発もの平手打ち →お腹を蹴られて →立ち上がろうとしたらアゴに一発くらい、わたしは後頭部から床に倒れた。頭をつよく打ったらしく、数秒か数十秒かのあいだ目の前がブラックアウトして、起き上がってからも頭と口の周りの感覚がもどらずにジンジンとしびれていた。どうやら、脳震盪を起こしたのらしい。夫はわたしを壁際に押し付け、わたしの首を右手できつく絞めながら、もう片方の左手でわたしの口と鼻をふさいできた。 これはいけない、きょうこそ殺される。 わたしは初めて悲鳴をあげた。

 


 9月5日のその後。わたしの悲鳴をきいて、近隣のどなたかが110番してくれたらしく、真夜中にお巡りさんがきた。 わたしが悲鳴をあげたとき、夫はたじろいでこう言った。「おまえ、悲鳴をあげるなんて、それは暴力だぞ!」 あぁだめだこりゃ。とわたしはクラリとめまいがした。 今だ、今しかない、と覚悟を決めて「きゃー! たすけて!ころされるっ。」と思いきり叫んでやった。窓ガラスがビリビリと振動するくらい。
 お巡りさんは無線で応援を呼び、家の前にパトカーが停まり、わたしだけそのパトカーに乗せられて〇〇警察へと護送された。
 警察署について、「こんな真夜中に、すみません。」と恐縮すると、女刑事さんがにっこりと微笑んで「ガマンしなくていいんですよ。イヤだと思ったら、イヤだと言っていいんですよ」そう言われて、その瞬間、わたしの肩から力がすっと抜けて、「そうか、イヤと言ってもいいんだ。」と驚いた。
 警察では女刑事さんがわたしの背中や首にアザがあるかないか調べて、それから取調室のような小部屋で老刑事さんから夫婦の間の事細かなことを訊かれ、正直に答える。「ご主人は普段あなたのことを何て呼んでいましたか」というので「【ママ】って呼んでました。」と正直に答えた。すると老刑事さんは驚いたように目を見ひらき「【ママ】、ですか。」と訊き返してきたから、「はい。【ママぁ】でした。」と答えると、老刑事さんは手帳に『マ、マ。』と書いてさらに赤いペンでその「ママ」に丸印をつけた。 それまでの理不尽な気持ち、悲しみと悔しさがスッキリと吹き飛んだ気がした。 けれど、わたしの身体の震えは止まらず、夫からまだ追いかけられているような気分だった。


 めまい。夫との部屋を出てからは、めまいはぴたりとおさまった。よっぽど嫌だったのらしい。

 

▲▲ 夫は、わたしの家族は、わたしのことを助けないだろうという確信ができてから暴力をはじめた。 具体的に、どんな暴力をうけたか、その詳しいことは父親には話せなかった。そんなことを知ったら、父は怒り狂って夫を殺しにいっただろう。
 子供の頃。あるのどかな日曜日の朝。父と妹と3人で歩いていたらわたしと妹のすぐ横で白い車がキューッと停まり、父はその車の女性運転手にむかって何事かを怒鳴った。シラフでよそ様に怒鳴るなんて、父はやっぱりキチガイだ、あぁ嫌だイヤだ……とそのときは思ったけれど。いま思い返してみると、わたしと妹は危うく車にひかれるところだった。たしかに危なかった。父がシラフで声を荒げたのは、あとにもさきにもあの一回だけ。父の怒りはまっとうなものだったと今は思う。親ならあたりまえだ。

 

  2008年9月5日から別居後、家庭裁判所に離婚調停を申し立て、翌2009年5月、正式に離婚した。