名も知らぬ草に blog

管理人:草(そう)

・生と死の境界は /ホームページ作りの思い出。きっかけは /ダイヤルアップ接続音 /テレホ /セコム君 /他愛もない話

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 画像は。催事のところで出会ったポーチ。大きさがあり、これならアイライナーとか眉ペンとかおしろいのコンパクトも入りそう。 2~5時間の外出はお化粧道具を持ち歩かないけれど。いつか、なにかのときに使いたい。中身は……秘密。女はヒミツでできてるの。

 2006.8.13より。「 母のことを書かないといけないのだけど。なぜか気重(きおも)で、メモを見る気にもなれない。(※母は、7.14に全身麻酔の手術をした)
 ふと見ると、左手の人差し指のつめが珍しくすてきな感じに伸びていた。他の指はともかく人差し指のつめはなかなか思う通りの形にならないから嬉しい。 こまめに削り、(長さとか形状的に)いつでもマニキュアが塗れる状態なのだけど、ときどき、塗ろうかなと思うと爪(先端じゃなくてお肉にくっついている部分)がなんだかとてもきれいな色にみえて、もったいなくなり、けっきょく塗らない。
 夜。弱っていた一匹のメダカが水草水草の間に入ったまま動けない。体色は肌色から白に変わり、それはメダカにとって死を意味する色だけれど、ときおりエラと尾びれが動くのでまだ生きているとわかる。 お腹も背中も水草の大きな葉に包まれながら、普段とは違うまなざしでわたしを見ている。
 どのメダカも、弱ると皆から離れて水流のゆるやかなこちらに寄ってきて、すがるような、何かを問うような、なんともいえない目をしてわたしを見る。今まではその目に戸惑い、うろたえ、まっすぐに見ることができなかった。(昨年の麦=子猫もうちに来てまもない頃にそんな目をしたことがあり、ドキリとした) 最近ようやく、きちんと見つめ返すことができるようになった。 今夜のメダカを眺めながら、これは幸せな死に方かもしれないと思う。水流にあおられることもなく、他のメダカに追い立てられることもなく、青々とした水草にしっかりと抱かれて。お日様に温められながら死ぬことの次くらいに幸せなかたちかもしれない。 といっても、わたしがそう思うだけで、このメダカ本人(本魚)がどう感じているかはわからない。
 水草に抱かれて動けないメダカのすぐ横で、元気なメダカが水草や小石をせっせとつついている。さっきの餌では足りないというように、銀色のお腹をきらきらと光らせて、つついている。死にゆく者のすぐ隣で、生の意味も問わず生きるために生きている者。その奇妙なような自然なような光景に、つい思う。生と死の境界について、どちらが先なのかについて(生のなかに死があるのか、死のなかに生があるのか)、その他いろいろ。 でも今夜は思うだけ。考えるまではしない。ふたたびぼんやりとメダカを眺める。 」


 9.3(月曜)の日記に登場した解脱の友人。
 若干二十歳そこそこなのに、当時30歳だったわたしや妹を「おまえ」呼ばわりしてきて。でもその人は尊大でも許されるキャラなので、とくに何とも思わなかった。

 2001年のある日、わたしが、「ホームページ作ろうと思うんだけど、何か良いツールがあるなら教えて?」と質問したところ、「note pad と打ち込んでみな。」。 言われたとおりにそう打ち込んだら、「メモ帳」が出てきて、「なにこれ?!」と言ったら「ま、がんばりな。」と言い残してその人はチャットルームを落ちてしまった。
 わたしはその真っ白なメモ帳を見つめながら呆然となった。一から創れってこと?? なにをどうしたらどうなるの。その夜から孤軍奮闘。緑色のホームページにしようと決めていたので、テーマカラーの緑色を「99cc99」にした。色んな人のホームページのソースをみて、htmlをマネしてみたり。数字や英語が苦手で頭のわるいわたしにはとうてい無理と思いながらひとつひとつ形にしていった。そして、なんとかかんとか完成させた思い出がある。
 名も知らぬ草に、が誕生したのは2001年4月14日。ユザワヤの園芸館?で、ユーカリソレイロリアという植物を買ったと記されている。
 そうだ、わたしは2001年3月~4月、前年の盲腸手術の後遺症(内臓が癒着:ゆちゃく)の、腸閉塞で1か月も入院していたのだった。今はお腹の大きな傷も見慣れて、すっかり忘れていた。
 入院していたとき、同室の人たちから、まるで母親みたいな、ううん、それよりもっと温かく親切にしていただいて。「その人たちの愛をわすれてはならない、どこかに書きとめておこう。」と思ったのが、名も知らぬ草に を立ち上げるきっかけとなった。

 おまえ呼ばわりの友人。もう連絡もとっていないけれど。元気かしら。 はたして友人は。解脱できたのだろうか。 や、解脱という言葉がでてくる時点で、かなりのところまで達しているような。

 草という名前は、チャット時代「そう」だったところに、大好きな野草の文字をかさねたもの。
 「そう」というハンドルネームは、当時の家人がチャット中にトイレに消えたので、その代役としてチャットルームに入るとき、とっさに自分のネームを思い浮かばず、「そぉねぇ、うーん。そうねぇ。……、【そう】?!」とひらめいたのが「そう」。そのときのハンドルネームがそのまま定着して今に至る。
 チャットをするときは、基本は素のまんまだけど、ときおり、気分によって「乙女」になったり「おねえさん」になったり「バーサン」になったり「 (空白)」あるいは、「ξ ←(巻貝のつもり)」になったりしていた。
 チャットでは挨拶ていどのやりとりをして、フッとそれで気が済んでしまうと、いきなり「落ちます。 >ALL」と一言だけ残して退場していた。いつもそんなふうなので、彼らからは「風のようだ(笑)」と言われたり。そうね、風のような存在だったかも。
 あとになって思ったのは、「そう」は「はい。」と同じで、英語なら「so」、「yes」とか、どこか肯定の雰囲気がある。 「sou」に「L」をつけると、「soul/ソウル(黒人音楽、魂:たましい)」となるし、あぁ、いいかもしれない。と思ったり。
 チャットの人たちは皆おもしろい名前で、暮らしてる街もさまざま。友だちの少ないわたしは、あそこでたくさんの友だちができて楽しかった。あの頃はネット接続がダイヤルアップで、夜11時?から早朝にかけてのテレホタイム(テレホーダイ)になるとみんなが集まってきてワイワイと他愛ないおしゃべりが始まるのだった。
 チャットをするようになって初めてパソコンに触れたので、キーボードの文字配列を覚えられなくて。タイピングは上達しないまま。 今も文字をうつときは一本指で、一つ一つ見ながらタイピングしている。中身がたどたどしいから、出てくるものもたどたどしい。ごめんなさい。

 

 2001.6.10 の日記より。「 おおきな荷物が届くので 友人に留守番をたのんで出かけた。
家のものを買うのが目的なのに ペット用品売り場で水槽&サカナに引っかかる。水草の間からメダカが顔をだしたり隠れたり。尾ビレと背ビレと胸ビレをヒレヒレヒレヒレ。。 目をまん丸にあけて、ヒ?というクチで何故か半笑いだ。半笑いのまま薄オレンジに透けるヒレをいそがしく動かしている。 もしも水槽を置くなら、やっぱり目の高さだなぁ とか考えたり。

魚用の仕切りの付いた皿と灰皿と 雨ざらしに耐えるサンダルを購入して店を出ると たまりかねたように雨粒が落ちてきた。
窓をぜんぶ閉めてくれる? 留守番している友人にお願いメールを打つ。 ヒサシが無くて雨が吹き込んでくるから。
 はい、閉めましたよ。と返事が来て思った 『これって。。生セコムかも。』 」

 生セコム君は、引っ越しのときにも来てくれて、箱にしまった食器類を包む新聞紙やプチプチをはぎとり、食器類を食器棚にしまうのを手伝ってくれながら「いろんな形の食器があって面白いですね(^▽^*)」と微笑む。まるでエプロンサービスのようなテキパキさで、わたしは驚いた。
 セコム君は、うちのパソコンのトラブルがあると、遠い埼玉からすぐに駆けつけ、あっというまに直してくれて、たのもしくて頼りになって有能な好青年だった。 あと、「〇〇さん」とか「△△ですよ。」とか「ありがとうございます。」と、まだ大学生で社会経験もないはずなのに、礼儀正しいところもよかった。
 オフ会のときには、「からあげ、どうぞ」といって遠いところにある鶏の唐揚げをわたしにサーブしてくれたり、わたしがアルコールひとくちで真っ赤になっていると「大丈夫ですか。お水飲んでください」と気遣ってくれたり。
 オフ会では、セコム君がデジタルカメラで盛り上がっている様子を撮っていた。「写真、できましたよ。送りますね。」といって送られてきた画像のなかには、参加者一人一人と、わたしが写っているものもあり、「いつのまに撮ったの?!」とびっくりして訊くと「ワザを使いました。ふふふ。」と得意げに笑う。なんですか、この盗み撮り少年。
 セコム君がうちに来たおり、カメラでわたしを撮ろうと追いかけてきて、写真うつりがわるく(撮られる瞬間、目をつむったり、半目になったりする)カメラ嫌いのわたしが「やめてよう!(>_<)」とつい声を荒げたら、「すす、すみません。」とセコム君は耳まで真っ赤になって謝っていて、わたしは『あぁ、かわいそうなことしちゃった。あとできちんと謝らなくちゃ……。』と反省したおぼえがある。 セコム君は写真の達人らしく、こんなブスのわたしをいつも綺麗めに撮ってくれて、ありがたい存在だった。

 

 自分がどういう顔なのかは分からない。生まれたときからこの顔だもん、これでいくしかないとあきらめてる。 友人は「チーズ スイート ホーム」という漫画の子猫チーに似ているという。「チーがびっくりして目ぇまん丸になったときの、そうそう、これ、この顔にそっくりや。」と教えてくれた。
 わたしは父親似。父は周富徳真田広之栗原類に似ている。 父とわたしはあまりにも似ているので、一緒に歩くのが恥ずかしい。 昔、実家を訪ねて、夜になって帰ろうとするわたしを父が大通りまで付き添ってくれて。「ようし、おとうさんがタクシーつかまえてやるからな☆」と片手を上げるのだけど、なぜか父は、次々とくる「空車」のタクシーには何のアクションもせず、「賃走」「迎車」のときだけ手を上げて、「おっかしいなぁ。タクシーぜんぜん来ないなぁ……。〇〇ちゃん、もう帰らないで今夜はうちに泊まっていきなよ(^^*)」とかいう。父は寂しくて別れたくないのだろうけど、わたしはとっとと自分のマンションに帰ってシルクロードで(当時お気に入りだった、チョコレートの匂いのする煙草)一服したかった。 つれない娘でごめんなさい。
 昔、友人の義理兄がわたしのことを「〇〇ちゃん、桜井幸子に似てるよね。ほらこれ!この表情!」といって興奮したようすでガソリンスタンドのCMを指さした。
 わたしがまだやせていて39キロだった頃、母は「あんた、その寂しそうな顔、葉月里緒奈みたいだね」と可笑しそうに笑った。高校生の頃、テレビアニメの「ストップ!ひばりくん」(原作:江口寿史)を見ているときに「あんた、ひばり君に似てない? そっくりじゃん。」と言ってきたり。 中学生のとき「クリーミィマミ」を見ていたら、「あんた、このマミみたい(変身する前)。いつもフードつきのパーカーでさ。」    え、わたしは黒んぼとかインディアンとかインド人じゃないの?と戸惑った。
 ちなみに、わたしの好きな男性の顔は、浅野忠信新井浩文(目がとくにステキ……)、忍成修吾くん(おしなり・しゅうご)、ハーヴェイ・カイテルクリント・イーストウッド。映画「ウルヴァリン」「ニューヨークの恋人」のヒュー・ジャックマン。 「ロッキー」のシルベスター・スタローン、「男はつらいよ」の寅さん、サラ・イネスの漫画「誰も寝てはならぬ」のヤーマダ君。 千代の富士(故:九重親方)、ジャッキー・チェン松重豊滝藤賢一、皇太子さま(浩宮:ひろのみやさま)、NHKの どーも君、クイーンのフレディ・マーキュリー。その他。

 

 どんなに親しい間柄でも、気をつけないといけない。デリケートに扱わないと。だって、人間は傷つきやすいものだから。こわれもの注意。
 きのう。仕事帰りの友人と雑談。こちらが1訊くと、10とか20とか返ってくる。テレビ画面は9.11の特集番組。9.11のときはびっくりしたね。と振り返る。 友人の話は興味深くて、ためになる。わたしはそれをひとつひとつ真剣にきく。 友人との他愛ない話は2~3時間にもおよんだ。それでもまだ足りない。もっともっと聞きたいのに。友人も話したりないらしく、じゃあ続きはまた今度、おたのしみね。とおひらきになった。

 

 夕方。ひさしぶりに高野どうふとしめじの煮物。昨年つくったきりなので、作り方をすっかり忘れている。どうしよう。 とりあえず雪平鍋に半分、お水を入れて、そこに昆布だしとかつおだしのスティック一本ずつ。お砂糖4杯、しょうゆつぎから、おしょうゆをくるくると5周。そうよ思い出して、身体がおぼえているはずでしょう。 おつゆが沸いたら、高野豆腐(乾物)、つづいて、子房にちぎったシメジを投入。これでいいのかな、どうかな。 できあがってから冷めてみないと、食べてみるまでは分からない。
 ようやく冷めた。いま、つまんでみた。うん、そぉね……。火をとめるのが遅れたためか、クリーミィな食感ではない。 もうちょっとだけ、おだしがほしいかも。

 

 Pulp を初めてみたとき、ボーカルのひとの、(誰かと待ち合わせしている設定?)自分の指と爪で遊ぶ仕草が、退屈してるときの女の子みたいで「あぁ、あるある。」と可笑しい。 くねくねと謎めいた身体の動きに、目が釘付け。くねくねしてるのにキメの瞬間もあり、カッコイイ。

 「アルツハイマー病を患う妻に、夫はキャメラを向けた」 「おてんとうさまがほしい」のサイトをみると、まずいちばん上にこのような言葉が表示される。

 

 

映画 「おてんとうさまがほしい」
http://www.motherbird.net/~otentousama/

 

 

 

名も知らぬ草に 2001年6月
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Sirius/5082/past0106.html