名も知らぬ草に blog

管理人:草(そう)

・父はフランケン /迫害、よっちゃんイカ /永世中立国 /蘇州夜曲 /戦争体験を語りますか /駅の子

 

 11日(火曜)午後、テレビ東京で映画「ワールド・トレード・センター /2006年、アメリカ」が放送される。9.11のあれかな。 録画予約、よし。

 幼い頃、父のノドにあるぐりぐりしたところが不思議で。「おとうさん、これなあに?」と訊くと、「おとうさんね、実は、フランケン・シュタインなんだよ。」という。さらに父は「ここに、ボルトが刺さってるんだよ」という。「ボルトってなあに?」と質問すると父は、「大きなネジだよ」と答える。「ふうん。ネジなんて刺さってて痛くないの?」「ちょっと痛いけど、大丈夫だよ……」といって父は喉仏をさすりがながら悲しそうに目を伏せて微笑んでくれた。『おとうさん、かわいそう……』とわたしまで悲しい気持ちになったのだけど。 そんなやりとりを何度かするうちに、わたしもだんだん分かってきた。わたしは本を読んで知ったのか、父の話には嘘が含まれていると気付いた。そして思った。どうやらわたしの父はホラ吹きなのらしい、と。 父のおかげで、テレビの映画のフランケン・シュタインを観るたびに「あ、かわいそう……」と思うようになってしまった。

 昔。父が何かのことで母からつよく叱責されたあとポツリとこう言った。「おとうさんは、迫害されているんだよ……」 たしかに母の責め方は理不尽で、わたしは父を気の毒におもった。あのとき初めて「迫害」という言葉を知ったような記憶がある。 わたしはそのとき、よっちゃんイカを食べていたのだけど、可哀想な父に「おとうさん、はい。」とよっちゃんイカを分けてあげると、父は「〇〇ちゃんは優しい子だね、ありがとう……」と言ってよっちゃんイカを美味しそうに噛みしめていた。
 永世中立国のスイスのように、基本的にわたしは中立だけど、物心ついた頃からつねに弱いほうの味方をしてきた。 スイスのことは父が教えてくれた。「スイスの人たちはね、自分からは戦争しないけど。みんな家のひきだしに武器があってね、もしも他の国が攻めてきたら、自分で銃をもって闘うんだよ、すごいんだよ、うん。」 その話をきいてわたしもスイスのような永世中立国になろう、と心にきめたのだった。


 母方の岩手の祖母は、よく幼い母に、戦時中はどんなに貧しくひもじい思いをしたかを話して聞かせたらしい。大人も子供も、いつもお腹がすいていて……「むかすは、みーんな、苦労すたんダ。」と、朴訥な岩手ことばで話してくれたという。 そして祖母はご飯の支度をしながら、あるいは布団の上げ下ろしのときなどに「蘇州夜曲(そしゅうやきょく)」を口ずさんでいたそう。 わたしの母も、たんすのうえにハタキをかけたり真っ白なぞうきんで拭き掃除をするとき、かすれ声でその「蘇州夜曲」を歌っていた。「♪君のみむねに 抱かれてきくは 夢の舟うた 鳥の歌…… ♪ 髪にかざろか くちづけしよか 君がたおりし桃の花……」歌のあいまに「昔、母さんがよく歌ってくれたのよ。【たまゆらの恋】なんだよ。」と母は言って、つづきを歌い始める。わたしはそれを聴きながら、水辺にたゆたうような幻想的でロマンチックな歌だなぁと感じていた。

 父方の祖父は、東京大空襲を奇跡的に生き延びた人だけれど、戦時中のことを父にはほとんど語ろうとしなかったという。大空襲でたくさんの焼け焦げた亡骸が目に焼きついていただろうに、そういうことを自分の子供には語らなかった。 祖父は不器用で、どちらかというと無口で口下手な人だった。子供に聞かせるには残酷すぎるというおもんぱかりもあったかもしれない。
 大空襲のあと、祖父は曽祖父母の骨をひろいあつめてリヤカーで上野のお寺まで運び、そのお寺に納骨してもらったという話だけど。 祖父たちの家は東京の深川だった。下町のほうは一面の焼野原になったという話を「ある男の自分史(東京大空襲の体験者のサイト)」で読んで知った。そのことから考えると、曽祖父母は大空襲のときは家を飛び出してあちこち逃げまわった末に焼け死んだはずだから、お寺の骨壺には骨など入ってなくて、空っぽか、焼け残ったお茶碗でも入っているのかもしれない。 祖父はその悲しい事実を告げるのが心苦しくて、父には「骨をひろってお寺まで運んだ」と話したのだろう。 父は四年前に他界した。父は亡くなった。祖父のやさしい嘘を信じたまま。

 このブログの8月15日の「昭和20年12月、上野駅地下道」は、NHKスペシャル「【駅の子】の闘い/ 語り始めた戦争孤児」を偶然みてしまい、わたしのもとに降りてきた情景。
戦争孤児だったおばあちゃんの「どうしてお国はおにぎりひとつさえくれないんだろう。と思いました。」という告白に、胸がはりさけそうだった。
詩を書き終えてから、こんなこと、許されるのだろうか。戦争を体験していないわたしに書く資格があるのだろうか。と自身に問うてみた。 想像を絶する恐怖と苦しみのなかにあった孤児たち。あの詩は、どうしようもない力でわたしに「どうか、わたしたちのことを皆に伝えて。」と訴えてきた。

 後日、わたしのもとにふたたび何かが降りてきた。「昭和21年1月、東京郊外」
 君子は母方の祖母の名で、建造さんと文子さんは父方の祖父母の名前。わたしはその人たちから力を分けてもらい、祖父母や両親から聞いた話やわたし自身の体験と記憶からエピソードを抽出した。蒸しパンと焼きりんごは、父が五歳のときに亡くした母、文子さんが作ってくれたという。母の話によると昔はお砂糖が貴重で、お料理にもめったに使わないんだとか(玉子焼きだけ使った?)。「山手線にのって」は、父の話。疎開先の新潟で生まれ育った父は中学2年のときに東京で働いていた祖父から呼び寄せられ、五反田の家に暮らし始め、学校が休みの日曜になると一人で列車の乗車券(入場券)を買って山手線に乗り、ぐるぐると何周もして車窓に流れる景色を眺めていたという。 すべての人たちから力をもらい、亡くなっていった子供たちの心の叫びに耳をすませ、全身全霊で祈るようにして書いた。
 あの物語に、わたしはひとつの救いをみた。わたしはあの子たちにおにぎりを食べさせたかった。お腹いっぱい食べて、安全なところで眠ってほしかった。真冬の地下道で、飢えと寒さに震えるあの子たちをこの胸に抱きしめてあげたかった。 ただそれだけの思いからあの物語は生まれた。 あの文章でもしも傷ついた人がいたなら、ごめんなさい。
NHKスペシャル「【駅の子】の闘い/ 語り始めた戦争孤児」は、2018年8月29日に再放送された。まだご覧になっていない人がいたら、ぜひ見てほしい。機会を逃した人には、申し訳ありません。

 昨夜。数年前に書きとめたきり忘れていた雨の詩を読み返し、あぁ、こんな心境だったのね、と静かに了承した。 午後。神聖かまってちゃんの雨の曲を聴きたくなって。ちりとりを初めて聴いたときの驚きがよみがえる。わたし、ちりとられちゃった。


永世中立国 ウィキペディア
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蘇州夜曲 1 - 李香蘭
https://www.youtube.com/watch?v=w0ht7Wkkc3s

丘を越えて /藤山一郎
https://www.youtube.com/watch?v=3IBS3Owkusc

帰りは雨
https://www.youtube.com/watch?v=ycFjWvi-bOU

ちりとり demo ver.
https://www.youtube.com/watch?v=qVz7xN8Pimc