日曜の朝。たばこを買いに出かけたら催事で装飾品がならんでいる。みた瞬間に「あ。」となった指輪を購入。売り子のおじさんが「袋に入れる?」というので「いえ、はめていきます。」と答えて指輪を小指に。おじさんが「いいね、すっごくいいよ♪」と賞賛してくれた。 ふたたび傘をさして雨の中へ。指輪なんて何十年ぶりかしら。19歳の頃にバイト先の友達のYちゃんが「あげる☆ わたしまだいっぱい持ってるから」といっていくつもの指輪をくれたのがきっかけで、自分でも指輪を買うようになったけれど、指が太いから引け目を感じて、次第にしなくなり、母と妹にすべてあげてしまった。
はじめての指輪体験は5歳頃。親からお祭りの夜店で買ってもらったという紫色のマーキースカットの石のついた指輪を、当時の幼なじみのヤっちゃんが「これ大切なんだけど、りーちゃんにあげる。友情のシルシだよ。」といってくれた。 わたしはその指輪をなくすといけないから、普段ははめずに、宝物箱にしまっておいた。宝物箱にはどんぐりやラムネ色のビー玉なども入っていた。
男の人から指輪をもらったのは一回だけ。わたしの誕生石のトルコ石がついていた。 その指輪はもうない。その人と喧嘩したときに指からはずして「こんなものっ!」と言って二階の窓から外の植栽のほうへ思いっきりふりかぶって投げ捨ててやったから。もちろん拾いになんて行かなかった。まぁ、あの指輪とは縁がなかったのだろう。
ものを投げ捨てたのはあれ一回きりだけど。若い頃のわたしは友人いわく、猫でいうとシャム猫(気高く、気むずかしい。ひとたび信頼関係ができると甘えてくる)、車でいうとスカイライン鉄仮面(通称:どっかんターボ)。少しだけ気性が荒かったらしい。わたしは射手座で、火のエレメンツだからちょっとだけ激しいのかもしれない。 スカイライン鉄仮面は、手に負えない暴れ馬みたいな車で、それを乗りこなしてうまく操れるようになると愛着がわくのだという。
今は誰かに腹をたてることはなくなり、どんな出来事にあってもイラっともしない。あいかわらず煩悩まみれだけど、その一方で解脱できつつあるのかも。
昔、チャットの友人が「ふむ。ワシも大人になったもんだ。解脱も近いな。」(その友人は21、2歳)というので「解脱ってなによ。」と笑ってしまったけれど、今はその心境がわかる。 解脱の友人から、あるとき「おまえは女帝だな」。「女帝そう」という異名をつけられた。どこが女帝なの??こんな乙女をつかまえて何てこというの、と心外だし可笑しかった。
日曜に買った指輪はどこかエスニックで、アルフォンス・ミュシャの絵に使われそうな植物のつるを連想させる。そしてクリムトの世界のようにきらびやか。
誰のことばだったか。「宝石を買うときは、人が石をえらぶのではない。その石が人をえらぶ(呼ぶ)のだ。」 ジュエリーや本と出会うとき、わたしは運命的なものを感じたら買う。
8/30「・妹のこと、両親のこと」で初デートを母に目撃されたことを書いたけれど、母は若い頃から似たようなことをしていた。
父が浮気していた頃、父が浮気相手のところへ出かけるのを母が尾行した。母は電柱から電柱へとうまく隠れているつもりなのに、体の9割ははみ出していて、すぐに気付いた父は『何やってんだ、あいつ……』と可笑しかったそう。 父が早歩きになると母はあわててその後を追おうとして立て看板に「バーン。」とぶつかったりして、そうこうするうちに、父にうまくまかれてしまったという。 母はいつもはみ出していて、丸見えなのだった。 こんな感じ→ 壁||д゚)
土曜に読んでいた田辺聖子の「人生は、だましだまし」より抜粋。「寝首」から。
「神サンは人の寝首をかく。」 人生は順風満帆というときほど、人はあやうい。
寝首をかかれたときの対応はただ一つである。神サンの無慈悲なる仕打ちに対し、達観すること、これあるのみ。 大正ごろの古い大阪の川柳に、「えらいことできましてんと泣きもせず」(詠みびと知らず)
思いがけない災厄にびっくりしつつも、「しゃーないしな」と気を取り直し、なにやかや、あわててとりつくろう。それも砲煙弾雨のなか、すべて応急処置である。しないよりはマシ、というようなお手当ながら、できるかぎりのことをする。(中略)「ほんまにワヤですわ」と自分を笑いつついう。
神サンに意地悪されず、順調につぐ順調、幸運につぐ幸運という人も世の中にはある。しかしそれは、神サンに可愛がられたせいではなく、神サンとしてはあとでいっぺんに叩くためなんである。」
つづいて「家庭の運営」より。
面白おかしい家庭、というのはあり得ない。平和と、面白おかしいこととは、両立しないから。私の友人の男、(中略)ちっぽけな、しけたアバンチュールである。(中略)そうして、慣れたわが家へ帰ってゆく。 そうか、「家庭」というものは、人が、「面白疲れ」したときに要るのだ。(中略)ともかく、とりあえず、さしあたり、ひとまず、なんでもいいから、まずもってやるべきは、家庭を「保たそうではないか」ということになってしまう。
『家庭の運営というものは、だましだまし、保たせるものである。』 不調になった体、車、潤滑ならざる人間関係を、「ああしぃ、こうしぃ」、様子を見い見い、あっちも立て、こっちも立て、あらゆる面から試み、手をつくしてみる、ほころびはつくろい、壊れた部分品は似たようなものを拾ってきて、あり合わせのチェーンでつなぎとめてそろそろと動かす。
それでも家庭という奴は気むずかしく、ふてぶてしい奴で、「モノよりココロだあっ」と叫ぶかもしれぬ。そういうときに、おお、そうかそうかと、これもあり合わせのココロでごまかしておけばよい。
大切なのは、とりあえず、到着地点まで保たせることである。 しかし、人によっては、だましだましもたせるにも飽いた、というときがあろう。そういうときはさっぱり撤回、解消して、また新しい家庭をつくればよい。
「解脱」って何だろうと思い、あらためて検索してみたら「解脱するぞ」という語句が現れ、そこから「オウム真理教の修行 ウィキペディア」をみてみたところ、そのなかに「サブリミナル: オウムの修行ビデオにはサブリミナル効果を狙って「尊師大好き」の文字などが混入されていた。」とあり、おもわず笑ってしまった。 他にも、麻原への盲従、洗脳するためにあらゆる手段を使った模様。
たとえば何かのファンになったり何かに心酔することも一種の宗教かもしれない。何かのファンになることはその宗教に入信するようなものか。 当人はそれを無上の幸福と感じているだろうけど。いずれにしても、傍からみたら馬鹿げていてくだらないように思えたり、理解しがたいことだろう。
Jamiroquai - Runaway (Video)
https://www.youtube.com/watch?v=uldpc4rWNXQ
EPO 音楽のような風
https://www.youtube.com/watch?v=udmu_k02FRo