名も知らぬ草に blog

管理人:草(そう)

・ケータイは /お弁当の思い出 /お皿洗おうか? /母のじゃがいも煮 /アムネスティ、カセットテープ

 

 スマホを失くす人は、昔の電話機のコード(受話器と本体をつなぐ)みたいにビヨ~ンと伸びるひもを、スマホと腰につないでおけばいいかも。
わたしは、病院や買い物くらいの外出では携帯をもたない。失くしたり落として壊れたりするといけないから。 わたしの携帯はガラケーで、友人からスマホに変更するよう勧められているけど「ごめんね、もうちょっとこれでがんばりたいの。」と、もう少しこれでいくつもり。だって、タッチパネルは冬になると指が乾燥して反応しなかったりするし。文字をうつときはボタンを押したいの。

 

 一昨日。友人と、お弁当の話になった。 友人は高校時代、毎日お母さんのお弁当を持たされていたという。高校の周りは山と川だけでお店屋さんがなかったそう。 友人のクラスメイトのお弁当のこと。アニキの親父のつくるお弁当は魚のみりん干しがご飯の上に敷きつめられていて、それが「めっちゃ、うまそうやねん。」 ヒロっちゃんは早弁しておかず全部とご飯半分を食べてしまい、お昼になるとご飯だけもって他のみんなから一品ずつおかずをもらって回るのだという。 ハマチのお弁当の、シャケの切り身の下の、シャケの味のついたご飯がうまそうで、友人は「そこだけくれよ!」といっていつもそこだけもらって食べていたらしい。

 お弁当といえば小学校の運動会。5年か6年のとき、雨になり教室で食べることになった。男子2人と女子2人が机をくっつけて、4人の給食の班で食べる。
 わたしのお弁当は茶色の紙袋に包まれていて、いやな気配がした。みんなが布のナプキンをほどいているなか、わたしはガサガサと紙袋をあけた。お弁当箱は新聞紙にくるまれていて、何かの煮汁らしきものがしみだしていて、ますますいやな予感がした。 おそるおそるお弁当のふたを開けると、ご飯の上にたくあんが乗っていて、おかず側にナスとピーマンのみそ炒め。そのナスピーの汁がご飯のほうへ流れこみ、ご飯が真っ黒に染まっていた。 よりによって同じ班に、クラスでいちばん豪華なお弁当で有名なダイちゃんがいて(わたしの向かい側の席)、みんなが「わー、すごい!見て見て!」とダイちゃんのところへ集まってきた。わたしはその向かい側で赤くなりながら恥ずかしいお弁当をもそもそと食べた。 運動会や遠足は年にいっぺんの晴れの日なのに。どうして母はあんなお弁当をつくるんだろう。みんなと同じような、玉子焼きと赤いウィンナと唐揚げ(肉団子の甘酢あんかけでも可。)のお弁当にしてほしかった。かるくトラウマ。

 

 わたしは中学までは給食だったけれど、高校になると最寄り駅のマコトでおにぎりを買って行ったり、学校の手前の橋のたもとのパン屋さんでポテサラロールや端っこまでみっしり具の入ったサンドイッチを調達したり。
 高校生のある日、父がお弁当をつくってくれた。 昼休みになり、お弁当のふたをあけたら、ご飯の上に何種類ものお新香がのっていた。お新香が美味しいからと入れてくれたんだろうけど。年頃のわたしは「お父さんったら……」と恥ずかしくて赤面してしまった。


 ちょっと早起きした朝は自分でお弁当を作ったりもした。玉子焼きとタコさんウィンナとがんもどきの煮物(がんもは前日の帰りに西馬込駅前のスーパーで購入)。がんもの煮物はお醤油をちょろっとにして上方風にお上品に仕上げた。 玉子を焼いたら、その端っこをわたしのお弁当に入れて、真ん中のきれいなところはラップをかけて、後で起きてくる妹と母のために置いていくのだった。 うちでは料理には、揚げ物で使った古い油を使っていて、それはときによって海老の匂いやカキの匂いがする。油は揚げカスが混ざっていて、その油で玉子焼きをつくると、そばかす模様の玉子焼きになってちょっと嫌だった。
食材がなかったときは冷蔵庫にはんぺんを見つけて、サイコロに切ったはんぺんとピーマンをおでんのように薄味にサッと煮てみた。お昼休みになってお弁当を食べてみたら、そのはんぺんの煮物がすごく美味しくて感動した。田辺聖子の小説に、「お弁当には大根の煮物とか高野豆腐とか汁気のあるおかずが美味しい」とあったけれど、その通りだと思った。 ときには油揚げを甘辛く煮たものも作り、あれもいいおかずになった。

 台所用洗剤マジカのCMが興味深い。濱田 岳(はまだ がく)が夫役で。「夫の初めての……『お、お皿洗おうか?』」「妻の3年ぶりの……『あ、ありがとう!』」 こんな夫婦どこにいるのよ?と可笑しい。
 笑いながら、友人に訊いてみる。「△△の両親はどうだった?」「オカンが全部やっとったなぁ。魚さばくときだけは親父がしとった」「お父さんは手伝わないの?」「親父は手ぇ出さへん。口も出さへん。オカンが作るもんをいつも黙って食っとった」 ふうーん、それはいいな。わたしの実家の父は口うるさかった。食卓にたくさんのおかずを並べるのが好きな人だった。

 母は献立に行き詰まるとまぐろのお刺身やお造り(刺身の盛り合わせ)を買ってきて、そうすると父は上機嫌で食べていた。 父が賭け事で勝ってきたらしいときは「よし、寿司とろう♪」といってしょっちゅう出前のお寿司をとっていた。並寿司だけど、コハダも入っていた。それぞれ好きなネタを取り替えっこして、エビの好きなわたしの桶にはエビが集まり、父は煮アナゴ、妹は玉子だらけになっていた。
 お蕎麦屋さんの出前をとるときは、父がざる蕎麦、妹は何だったかな、失念、わたしは鍋焼きうどん。母がカツ丼を注文すると、父は「蕎麦屋でカツ丼? おまえは邪道だな。」といって笑っていた。 ラーメン屋さんの出前のときは、母が天津飯を頼んだりして、やはり父に「邪道だ。」と言われていた。
 それなら王道は何か?普通のラーメン、チャーシューメン、わかめラーメン、五目ラーメン……、あ、チャーハンかな。中華丼もいいな。やきそばなんてのもアリかも。夏なら冷し中華とか。母の天津飯だって、ひとヒネリあっていいんじゃない?

 母は何事にも要領がわるく、手抜きの仕方を知らなかった。(40年くらい前)おそらく当時はインスタント物が普及していなくて、一から作らないといけなかった。二品のおかずを作るのに3時間もかかり、妹もわたしもお腹がグーグー鳴ってしまって、先に出してあるイモサラダやひじき煮をつまんで待っていた。 それから母はおかずの味付けがキマらなくて、何度も味見して醤油だの砂糖だのを足してゆき、いつも最終的にはしょっぱくなっていた。 けれど、わたしの好物もあった。お肉も何も入っていない、じゃがいもの甘しょっぱいお煮付け。お芋の煮崩れてトロトロになったところをスプーンですくってご飯にかけ(お行儀わるいけど)、それをかきこんで食べるのが美味しかった。

 

 わたしが入学願書提出に初めて高校を訪れたとき、薬師丸ひろ子にそっくりな美少女がいて気になった。入学試験の朝、わたしははりきって鶏ひき肉で鶏そぼろ弁当をつくった。試験の教室には偶然その美少女もいて、休み時間に話しかけてみた。 入学試験を一緒に受けた友達は落ちてしまい、わたし一人だけその高校に通う事になった。入学してすぐ件の美少女と同じクラスになり、その子と友達になれた。彼女はどう思っていたのか最後まで不明だったけれど、わたしは親友だと思っていた。
彼女はちょっと変わっていて自由奔放で引力のある子だった。クラスで浮いてしまいがちな彼女をほうっておけなくて、彼女とクラスメイトとの間でわたしは架け橋になろうと心をくだいていた。 夏休みに尊敬している図書室の司書のU先生から暑中見舞いが届き、「Mさんに引きずられないようにネ。」という言葉にショックを受けた。たしかにわたしは彼女のペースに振り回されていた。先生はそれをみて気になっていたのだろう。 その葉書には「社会の仕組みや世界で今どんなことが起こっているのかをよく見聞きしてくださいね」とも書かれていて、それがきっかけで「お父さん、新聞読みたいの」とお願いして毎日、新聞を読むようになった(むずかしい経済面や政治面は読まない)。図書委員だったわたしはアムネスティの存在を知って、文化祭ではアムネスティの活動について発表したりした。アムネスティは、人種差別問題や、不当に監禁・投獄されている人たちのことを世に知らしめて、彼らを救おうとする運動。
 一年のとき、もうひとり、絵の上手なふっくらとしてエクボの可愛い「いっ子ちゃん」とも仲良くなり、放課後に美術部の部室でいっ子ちゃんと美少女が絵を描くのを眺めたりしていた。あるときは学校帰りに3人でバスに乗って晴海埠頭へ行き、そばの公園いちめんに生えていたシロツメクサのなかから四葉のクローバーを探したりした。そのときみつけた四葉のクローバーは押し花にして、紡木たくの漫画「机をステージに」にはさんでおいた。


 高校2年になるときクラス替えがあり、初日の朝にSちゃんと目が合って「あ、仲良くなれそう。」と思ったらSちゃんが話しかけてきて、その日からわたしたちは親友になった。Sちゃんはいつも落ち着いていて、きゃぴきゃぴと話すわたしに呆れたりせずに微笑みながらウンウンウン、と聞いてくれた。 Sちゃんも音楽が好きで、「(貸しレコード屋さんの)安全地帯を借りるんだけど、りえちゃんも聴く?」といって安全地帯のアルバムのカセットテープをつくってくれたり、ビリー・ジョエルカルチャー・クラブのテープをくれたりした。わたしはそれらのカセットテープを繰り返し聴いて、聴きすぎてテープが伸びてところどころ「ウヨン」と聞こえたり。アルバムだから、ある曲からつぎの曲への流れまで覚えていた。 カルチャー・クラブの「War Song」は英語の歌詞の内容を知らないしビデオを見たこともなく、ノリノリで楽しい曲だと思って聴いていた。

 

 大人になってからあの曲のミュージック・ビデオを初めて見たとき、その強いメッセージに、(いい意味で)「ガーーン。」ときて、『そうだったのか……』と衝撃を受けてしまった。いつも奇抜ないでたちで。それまでの名声もかなぐり捨てて。愛と平和と自由への希求を命がけでうたいつづけたボーイ・ジョージは素敵だと思う。